封筒にお金が入っていた

ある日、郵便受けに届いていた封筒を開けたら、中に1ドル札が入っていました。保険の勧誘でした。

最初は偽札かと疑いました。日本では現金を郵便で送るには書留が必要で、普通の封筒に現金が入っていること自体がまずありえない。でもどうやら本物のようで、これは「少し読んでみてください」という意味のお金らしいと理解しました。

気持ち悪さはありました。知らない相手から、頼んでもいないお金が届く。でも送り返すわけにもいかないし、結局ありがたく使いました。使いながら、この気持ち悪さは何だろうと考えていました。

毎週届く自分の名前

保険の勧誘だけではありませんでした。ダイレクトメールは多い週で5通くらい届きます。保険、クレジットカード、地元のサービス。そのどれにも、名前と住所が印刷されている。

USPS が運んでいる広告目的の郵便は、2025年度だけで568億通あったそうです。世帯の数で割れば週に数通ずつ届いている計算になるので、多い週に5通というのは、驚くような数でもありませんでした。

日本にいた頃にもチラシは届いていました。でもあれは名前が書いていなかった。ポストに投函されるチラシは、「そこに住んでいる誰か」に向けたもので、自分に向けたものではない。見ずに捨てても何も気にならなかった。

アメリカのDMには名前がある。どこかで情報が漏れたのだと思いました。怖さはあったけれど、どこから漏れたか分からない以上、どうしようもない。「Current Resident(現在の居住者様)」宛のものもあって、名前が分からなくても住所さえあれば届いてしまう。合理的だとは思ったけれど、アパートの空室にも届いているのだろうか、と想像すると不思議な気持ちになりました。

そのまま捨てる人たち

毎回、ダイレクトメールを開封して、名前の部分を破ってから捨てています。面倒です。でも名前が印刷されたまま捨てるのは不安で、この手順が省けません。

ある日、アパートの郵便受けの近くで、他の住人がDMの束をそのまま捨てているのを見ました。開封もせず、名前も気にせず、ゴミ箱に入れていく。

あの光景を見て、毎回やっている「開封して、名前を確認して、破って捨てる」という手順は、ここでは自分だけがやっていることなのかもしれないと思いました。

同じ郵便物を前にして、こちらは名前を処理してから捨てる。相手はそのまま捨てる。この差は、名前への感度の違いなのだと思います。印刷された自分の名前は「自分の一部」で、管理しなければならないもの。だからそのまま捨てることに抵抗がある。あの人にとっては、DMに印刷された名前はただの印字で、自分の一部ではない。だからそのまま捨てられる。

ゴミ箱に至るまでの距離

日本のチラシは、ポストからゴミ箱まで一直線でした。手に取って、見て、捨てる。名前がないから、何も引っかからない。

アメリカのDMは、ポストからゴミ箱に至るまでに距離がある。手に取って、名前を確認して、開封して、中身をざっと見て、名前の部分を破って、ようやく捨てる。読むつもりがなくても、この手順を省けません。

考えてみれば、この「距離」を作ること自体が、ダイレクトメールの設計なのだと思います。名前を載せて、お金を入れて、簡単には捨てられない仕組みを作る。ゴミ箱に至るまでの距離が長いほど、途中で目が止まる可能性が上がる。

実際、それが効いたことがあります。近所のピザ屋のクーポンが入っていて、普段なら読まないDMなのに、名前があるから開封して、開封したからクーポンが目に入って、結局そのピザ屋に注文しました。あの「距離」の設計に、ちゃんと乗せられていたのです。

あの1ドル札も同じでした。先に何かを渡されると、返さないままでいるのが少し落ち着かない。ドアを押さえてもらった話 で書いたのと似た力が働いているのだと思いますが、あちらは目の前の人との間に勝手に生まれるもので、こちらは顔も知らない相手が一方的に仕掛けてくる。同じ向きの力なのに、後に残るものがまるで違います。気持ち悪さを感じながらも使ってしまい、無視するにも一手間かかり、その一手間の中で、少しだけ関係が生まれている。

名前が動いている社会

名前を破る手間には慣れてきました。でもこの作業をするたびに思うのは、この社会では自分の名前と住所がどこかで動いている、ということです。

ただ、「漏れた」というのは思い違いでした。氏名と住所は、不動産の登記や公的な記録、購買の履歴から集められて、データブローカーと呼ばれる業者のあいだで売買されています。違法なことは何も起きていない。郵便受けに届いていたのは事故の結果ではなく、正規の流通の末端でした。

止める方法もありました。保険とクレジットカードの勧誘は信用情報機関の持っているリストから来ているので、optoutprescreen.com で止められます。5年間か永久かを選べて、無料です。それ以外の販促郵便も DMAchoice に登録すれば減らせる。調べれば10分で分かることでした。

分かったうえで、まだ手続きをしていません。今週も届いたDMを、開封して、名前を破って捨てました。

止められないから破っているのだと思っていました。でも止められると知った今も破っているのだから、たぶんそうではない。この手順は、名前が流通している社会にまだ馴染んでいないことを、毎週確認する作業になっていたのだと思います。アパートの住人がそのまま捨てられるのは、確認する必要がないからです。

いつか手続きをして、郵便受けが静かになる日が来るのかもしれません。そのときにはもう、名前を破る手は止まっているのだと思います。

参考

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