同じコーヒーなのに

スタバのドライブスルーを使ったことがあります。

列に並んで、窓口で注文して、コーヒーを受け取って、走り出す。便利でした。車から降りずにコーヒーが手に入る。暑い日や寒い日、急いでいるとき。合理的だと思いました。

でも後日、同じスタバの店内に入ってコーヒーを注文したとき、何かが違いました。カウンター越しに店員さんと近い距離でやりとりして、店の中の音楽や他のお客さんの気配を感じながら待って、席に座って飲む。同じ店の、たぶん同じコーヒーなのに、こちらの方がおいしく感じたのです。

上手く言えないのですが、車の中で飲んだときには何かが足りなかった。コーヒーの味の問題ではなく、あの空間の中にいるかどうかの違いだったのだと思います。お店の雰囲気ごとコーヒーを飲んでいたのだと気づきました。

考えてみれば、コーヒーの値段にはこの場所の空間代も入っているのかもしれません。ドライブスルーはその空間を省いて、コーヒーだけを取り出している。効率はいい。でも自分がお金を払いたかったのは、コーヒーだけではなかったのだと思います。

降りなくていい場所が増えていく

このドライブスルーという仕組み、スタバやファストフードだけの話ではありませんでした。

車で走っていて、薬局にドライブスルーの窓口があるのを見かけたとき、驚きました。処方薬を、車の窓越しに受け取れるようになっている。日本の薬局では、店内に入って番号を呼ばれるのを待って、薬剤師さんと対面で話をして受け取る。あの一連の流れが、車に乗ったまま完結するように設計されている。銀行にもドライブスルーのATMがあって、車の中から入出金ができるようになっていました。

そしてドライブスルーだけの話でもなかった。周りのアメリカの人たちを見ていると、歩いて数分の距離でも車で行く人が多い。自分なら歩く距離を、当然のように車で移動している。最初は、歩きたくないのだろうか、と思いました。でも夏の暑さや冬の寒さを考えると、合理的な判断ではあるのだと思います。

そもそも、これができるのは土地があるからなのだと思いました。ドライブスルーには車が列を作るスペースが要る。駐車場も広い。日本の街の密度では、物理的にこの仕組みを置く場所がないことも多い。ドライブスルーは、車社会であると同時に、土地があるアメリカだからこそ成り立つ形なのかもしれません。

For here or to go? — 持ち帰りの頼み方と容器の話持ち帰りという選択肢For here or to go? — 持ち帰りの頼み方と容器の話カフェで For here or to go? と聞かれるたび、テイクアウトは和製英語ではなかったのかと気になっていました。to go・takeout・take awayの使い分け、食べ残しを持ち帰る文化、to-goのチップまで調べました。

「降りる」の中にあったもの

スタバで感じた違いの正体を考えていて、「降りる」という動作の中に、自分が思っていたよりも多くのものが含まれていたことに気づきました。

日本で何かの用事を済ませるとき、自分はいつも「降りて」いました。銀行に行くなら、車を停めて、建物に入って、番号札を取る。カフェなら、ドアを開けて、メニューを見て、席に座る。これは用事の手順だと思っていましたが、振り返ると、そこには目的以外のものが含まれていた。

建物に入ること。その場所の空気を感じること。誰かと対面すること。カフェなら、コーヒーを待つ時間、周りの会話の気配、カップの重み。目的はコーヒーを飲むことだったはずなのに、「そこにいる」こと自体が体験の一部になっていた。

ドライブスルーは、この「降りる」を省いている。目的だけを取り出して、場所ごと省略する。薬がほしければ薬を、コーヒーがほしければコーヒーを、窓から受け取って去る。移動と目的のあいだにあった「場所に入る」という段階が、きれいに消えている。

これは効率の最適化としてはとても優れている。でもドライブスルーで受け取ったコーヒーを車の中で飲んだとき、自分は効率では測れないものを失っていた。同じコーヒーが、同じ味のはずなのに、おいしさが違った。あの違いは、「降りて、入って、そこにいた」かどうかの違いだったのだと思います。

それでも降りて入りたい

自分は今でも、歩ける距離は歩いて行くことが多いです。ガソリン代 もあるし、運動のためでもある。スタバも、時間があれば店内に入る方を選びます。

でも先日、雨の日にドライブスルーを使ったとき、「これでいいか」と思っている自分がいました。あの便利さに、少し慣れ始めている。

まだ降りたい側にいると思います。カウンター越しに店員さんの顔を見たいし、お店の空気の中にいたい。でも「降りなくてもいい」という選択肢が常にあるこの社会で暮らしていると、降りることの方が意識的な選択になっていく。日本では降りることが当たり前すぎて、選択だとすら思っていなかった。

降りることに価値を感じている自分と、降りなくていい便利さに慣れ始めている自分。今はまだ前者の方が強いのですが、その差が少しずつ縮まっている気配は感じています。

降りなくていいことの何を惜しいと感じているのか。それを言い当てている言葉がありました。

「第三の場所」という考え方

アメリカのドライブスルーの歴史は、自動車文化の発達と密接に結びついています。1930年代にテキサス州で最初のドライブスルーレストランが登場し、第二次世界大戦後の郊外化(サバーバナイゼーション)の中で急速に広まりました。高速道路網の整備と郊外の大型ショッピングモールの発達により、アメリカの都市構造は車での移動を前提とした設計になっていきました。ドライブスルーは、この「車から降りないで生活できる」都市設計の象徴的な存在です。薬局のドライブスルーが一般化した背景には、この都市構造に加えて、処方薬の受け取りを効率化することで薬剤師の対応件数を増やすという医療効率化の流れもあります。

社会学者レイ・オルデンバーグは、自宅でも職場でもない「第三の場所(third place)」が、地域社会のつながりや個人の心理的充足に重要な役割を果たすと論じました。カフェ、パブ、理髪店、本屋——こうした場所は、そこで何かを買うこと以上に、「そこにいる」ことに意味がある空間です。「お店の雰囲気ごとコーヒーを飲んでいた」というあの感覚は、第三の場所が持つ価値を言葉にする前に捉えていたのだと思います。ドライブスルーは商品という目的だけを取り出し、第三の場所を経由しない仕組みとして機能している。オルデンバーグ自身、車中心の郊外開発が第三の場所を衰退させていると指摘しています。「降りる」ことの中に何かがあるという実感は、この議論と重なります。

「同じコーヒーなのに店内で飲む方がおいしく感じた」というのは、心理学の分野でも研究されている現象です。食品の味覚は、味そのものだけでなく、飲食する環境——照明、音楽、周囲の人の存在、空間の広さ——に影響を受けることが複数の研究で示されています。レストランの照明や音楽が食事の評価を変えるという実験結果もあります。お店の空間という文脈が加わることで、味覚体験はより豊かになる。「降りて、入って、そこにいる」ことは、単なる移動の手間ではなく、おいしさを構成する要素のひとつだったのかもしれません。

参考

  • レイ・オルデンバーグ『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(原著 The Great Good Place, 1989)