箱の中の二人
アパートのエレベーターで、知らない住人と二人きりになりました。
狭い箱の中に、何の関係もない人と閉じ込められる。日本のマンションでも同じ場面は何度もありました。あのときの自分は、スマホを取り出すか、階数表示を見るか、なんとなく空中を見ていたと思います。相手も同じように、こちらを見ないようにしている。二人とも、相手が「いない」かのように振る舞うことで、あの小さな空間を乗り切っていました。
ここでは違いました。ドアが閉まると、相手が “How’s your day?” と声をかけてきたのです。“Good, thank you. How are you?” と返しました。相手はうなずいて、自分の階で降りていった。十秒くらいのやりとりでした。
それだけのことです。でも日本のエレベーターでは起きなかったことが、ここでは毎回のように起きる。
返せる。でも言い出せない。
以前、“How are you?” は質問じゃなかったのかもしれない という記事を書きました。あの言葉が挨拶であること、“Good"で返せば十分であること、言葉の形式についてはもう理解しています。返し方も身についてきました。
エレベーターだけではありません。散歩をしていてすれ違った人が “How’s it going?” と声をかけてくる。スーパーで目が合った人が “Nice day, huh.” と言ってくる。どこでも返せるようになりました。
でも最近気づいたのは、返せることと、自分から言い出せることは、まったく別の問題だということです。
エレベーターに先に乗っていて、後から誰かが入ってきたとき。散歩ですれ違う人が近づいてきたとき。自分から声をかけるべきだろうか。ここではそれが自然な振る舞いだと分かっている。“How’s your day?” と言えばいい。それも分かっている。でも口が開かない。
この前もエレベーターで二人きりになって、結局何も言えませんでした。ドアが閉まった瞬間、頭の中では「言おうかな」と思っている。でもその次に浮かぶのは、もしそこから会話が始まったらどうしよう、ということ。日本では、声をかけたからにはそこから会話を成立させる責任がある、と感じていました。一言だけ言って終わるのは中途半端で失礼なのではないか。天気の話くらいしか思いつかないけれど、それだけのために沈黙を破るのか。そう考えているうちに相手の階に着いて、ドアが開いて、何も起きないまま終わる。
アパートにはいろいろな文化の人が住んでいる、ということも頭をよぎります。相手がどんな距離感を好むのか分からない。声をかけることが歓迎される人もいれば、そうでない人もいるかもしれない。日本のエレベーターでは全員が沈黙していたから、この判断をする必要がそもそもなかったのです。
口を開くことの重さ
エレベーターで口が開かない自分のことを考えていて、ひとつ気づいたことがあります。自分にとって、口を開くことが「重い」のです。
日本のエレベーターでは、口を開かないことが普通でした。沈黙は冷たいのではなく、「あなたの空間を邪魔しません」という配慮だったのだと思います。相手も同じように沈黙していて、その沈黙がお互いの丁寧さの表れになっている。口を開かないことが敬意の形だった。
この文化の中で育つと、口を開くことには重みがつきます。黙っていて良い場所で、あえて言葉を発する。それは沈黙の秩序を破ることであり、破った以上は何かを提供しなければならない。面白い話題か、意味のある情報か、少なくとも会話として成立するものを。だから「何を言えばいいか分からない」し、「言った後の展開に責任を感じる」のだと思います。
アメリカのエレベーターでは、口を開くことが軽い。軽いというのは、雑という意味ではなくて、一言で完結していい、ということ。“How’s your day?” “Good.” 。これで終わり。会話に発展させる義務はない。声をかけた瞬間に目的は達成されていて、その目的は「あなたがここにいることを認めました」というサインを送ること。
沈黙で敬意を示す文化では、口を開くことにコストがかかる。言葉で敬意を示す文化では、口を閉じたままでいることにコストがかかる。自分が感じている「言い出せなさ」の正体は、日本のエレベーターで身につけた、口を開くことへのコスト感覚が残っているからなのだと思います。
会釈という場所
今の自分は、話しかけられたら返せます。でも自分からはまだ声をかけていません。
代わりに、会釈をしています。
目が合ったら、軽くうなずく。日本式の目を合わせない沈黙でもなく、アメリカ式の “How’s your day?” でもない。会釈は、「あなたがいることは認めています。でも言葉にはしません」という行為で、日本の沈黙よりは一歩踏み出していて、アメリカの言葉にはまだ届いていない。
会釈の方が楽ではあります。でも、声をかけられた日の方が、つながっている感じがするのも確かです。“How’s your day?“のあの数秒は、エレベーターを降りた後にも少しだけ残る。会釈は、降りた瞬間に消えます。
いつか自分から “How’s your day?” と言える日が来るのかもしれません。でも今は、会釈がちょうど自分の立っている場所なのだと思います。
この空間での距離の取り方が気になって、少し調べてみました。
気になって調べてみました
社会学者アーヴィング・ゴフマンは『公共の場における行動』(1963)の中で、「市民的無関心(civil inattention)」という概念を提唱しました。都市で見知らぬ人同士がすれ違うとき、一瞬だけ相手の存在を視線で認めた上で、意図的に目をそらす行為のことです。これは無関心なのではなく、「あなたの存在は認めましたが、それ以上は立ち入りません」という積極的な敬意の表現だとゴフマンは論じています。日本のエレベーターでスマホを見たり階数表示を見たりする行動は、この市民的無関心の典型です。一方、アメリカのエレベーターでの “How’s your day?” は、同じ「相手の存在を認める」という目的を、沈黙ではなく言葉で達成しています。研究者の中にはこれを「市民的関与(civil engagement)」と呼ぶ人もいます。どちらも社会的秩序の維持として機能していますが、その手段が正反対です。
人類学者エドワード・ホールは「プロクセミクス(近接学)」の理論の中で、人間の対人距離を密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離の四段階に分類しました。エレベーターは、本来なら親しい間柄でしか発生しない「密接距離」に、見知らぬ人同士が強制的に置かれる空間です。この物理的な近さと社会的な遠さのミスマッチをどう処理するかに、文化差が表れます。日本式の沈黙は心理的距離を「広げる」ことで密接距離の侵入感を和らげる戦略であり、アメリカ式の声かけは心理的距離を「なじませる」ことで気まずさを解消する戦略です。同じ狭い箱の中で、正反対の方法で居心地を調整しているのです。
本文で触れた「口を開くことの重さの違い」は、ホールが別の著作で論じた高コンテクスト文化と低コンテクスト文化の差とも重なります。高コンテクスト文化では、言葉は多くの社会的意味を運ぶため、発話のコミットメントが大きくなる傾向があります。声をかけたなら会話として成立させなければならない、という本文中の感覚は、この高コンテクスト性の表れだと考えられます。低コンテクスト文化では、言葉はより軽い社会的コミットメントで使われるため、一言だけの声かけが中途半端にならず、それだけで完結した行為として成立します。本文の「一言で完結していい軽さ」は、この低コンテクスト性が日常の空間に表れたものとして捉えることができます。
