バーカウンターの小さなボトル
バーで隣に座った人のカウンターの上に、小さな除菌ジェルのボトルが置いてありました。
驚きました。食事をする場所で、食べ物や飲み物のすぐ横に除菌ジェルがある。その人はバーテンダーが何かを触った後や、特にきっかけがなくても、ときどき手に取って使っていました。
見ていて気になったのは、意外なことでした。「食事中に除菌するんだ」ではなく、「それ、食べ物にかからないのかな」でした。
相手は、手の汚れが食べ物につくことを気にしている。自分は、ジェルが食べ物につくことを気にしている。同じカウンターに座っていて、心配の方向がまるで逆でした。
カートを拭く人たち
あのバーの一件から意識して見るようになると、除菌ジェルの存在感に気づくようになりました。
特に印象に残ったのはスーパーの入口です。カートの持ち手を、備え付けのシートで拭いてから使い始める人がいました。ちょっとした動作で、迷いがない。毎回やっているのだろうなと分かる手つきでした。入口に置いてあるポンプ式のジェルを押してから店に入る人もいます。どちらも、誰かに言われてやっている様子ではなく、自分のルーティンとしてやっている感じでした。
レストランの入口にも、個人のカバンの中にも、あの小さなボトルはあちこちにありました。日本にもアルコール消毒液はあります。でもそれは「施設が用意したもの」で、個人が自分のために持ち歩いて、人前で日常的に使うものとは少し違った気がします。
清潔さの「置き場所」が違う
バーカウンターで感じた違和感の正体を、しばらく考えていました。
最初は、衛生意識の高さの違いなのだろうと思いました。でもそれだと、日本の衛生意識が低いことになってしまいます。実際にはそんなことはありません。日本のお店はとても清潔に保たれているし、食品の包装も丁寧で、トイレの清掃もきちんとしている。衛生意識は高い。でも、除菌ジェルを個人が持ち歩く習慣はあまりない。
考えているうちに気づいたのは、衛生意識の「高さ」ではなく「置き場所」が違うのではないか、ということでした。
日本では、清潔さは「場所」に宿っています。お店がきれいに保たれている。食品が衛生的に管理されている。環境が清潔であることが前提で、だからそこにいる個人は、場を信頼していればいい。わざわざ自分で除菌する必要がない。逆に言えば、個人が除菌ジェルを取り出すことは、「この場所を信頼していません」というメッセージになりかねない。
アメリカでは、清潔さは「個人」に属しているのだと思います。環境がきれいかどうかとは別に、自分の手は自分で管理する。それは場所への評価ではなく、自分自身のルーティンにすぎない。だからバーカウンターにジェルを置いても、バーテンダーも周りの人も、それを店への批判とは受け取らない。
あの心配の方向の違いもここにつながります。自分は「場がきれい=手もきれい」と感じていたから、ジェルという余分なものが食べ物に近づくことの方が気になった。隣の人は「手は自分で管理するもの」だから、ジェルは食べ物を守る側のものだった。
この「置き場所」の違いを考えていて、コロナのことも思い出しました。日本でもコロナ以降、お店の入口にアルコール消毒液が当たり前に置かれるようになりました。でも収束に向かうにつれて、店頭の消毒液は減っていった。あれは個人の習慣として根づいたのではなく、場に付属するものだったから、場が「もう大丈夫」と判断した時点で消えたのだと思います。アメリカでは、コロナが落ち着いた後も、あのボトルはそのまま残っています。もともとあった「自分の衛生は自分で管理する」という土台の上に乗っていたからこそ、残ったのかもしれません。
信頼の置きどころ
自分は今でも除菌ジェルを持ち歩いていないし、スーパーの入口に置いてあっても使わないことが多いです。
場所がきれいなら、自分は大丈夫。そういう感覚で暮らしてきました。
でもあのバーカウンターの夜から、ひとつだけ考えるようになったことがあります。場を信頼している自分は、その信頼が成り立たない場面ではどうしているのだろう、ということです。日本のお店は確かにきれいに保たれている。でもアメリカのすべての場所がそうとは限りません。それでも自分は何もしていない。場を信頼しているのではなく、ただ何もしていないだけなのかもしれない。
隣の人は、場を信頼するかどうかに関係なく、自分の手を自分で管理していました。その方が、環境に左右されない分だけ、実は安定しているのかもしれません。持ち歩くようになるかは分かりませんが、あのボトルが「おおげさ」に見えていた頃の自分からは、少しだけ動いた気がします。
この衛生行動の文化差が気になって、少し調べてみました。
気になって調べてみました
イギリスの人類学者メアリー・ダグラスは『汚穢と禁忌』(1966)の中で、「汚れ」とは物質そのものの性質ではなく、「あるべき場所にないもの」だと論じました。靴は玄関にあれば普通ですが、食卓の上にあれば「汚い」。物質は同じでも、場所が変わると意味が変わる。この視点で振り返ると、バーカウンターに除菌ジェルがあったときに自分が感じた違和感は、衛生用品が食事の場に「混入」していることへの秩序感の問題だったのかもしれません。ジェルが汚いわけではない。でも、食べ物が並ぶ場所に衛生管理の道具があること自体が、自分にとっては「あるべき場所にないもの」だった。一方、隣の人にとってあのボトルは財布やスマホと同じ「日常の持ち物」であり、食卓にあっても何の逸脱でもなかったのだと思います。
本文で触れた「清潔さの置き場所」の違いは、衛生行動研究においても文化差が指摘されているテーマです。集団主義的な文化圏では、環境の清潔さを共同で維持する傾向が強く、公衆衛生は社会全体の責任として捉えられやすい。一方、個人主義的な文化圏では、衛生管理は個人の選択と責任の領域にあり、各自が自分の判断で行動するものとされます。日本のお店が清潔に保たれている背景には、場を提供する側が衛生を担うという暗黙の分担があり、アメリカの除菌ジェル文化の背景には、衛生は個人が自分で管理するものだという前提があります。
コロナ後の衛生行動の持続にも、この文化差が影響していると考えられます。感染症対策として世界中で手指消毒が推奨されましたが、パンデミック収束後の行動定着率には文化による差があることが報告されています。もともと個人の衛生管理として手指消毒の習慣があった文化圏では行動が残りやすく、施設や環境の清潔さに依存していた文化圏では、環境が「平常」に戻ると行動も元に戻りやすい。本文で触れた「日本では消毒液が減り、アメリカでは残った」という観察は、この構造の表れなのかもしれません。
