前菜はシェア、メインは一人一皿
知人たちとイタリアンレストランに行ったときのことです。
前菜はみんなでいくつか頼んで、テーブルの真ん中に置いてシェアしていました。ここまでは日本と同じ感覚です。でも、メインの注文になったとき、雰囲気が変わりました。みんなそれぞれ自分の食べたいものを一品選んで、個別に注文していたのです。
日本だったら「何種類か頼んでシェアしない?」と誰かが言い出すことも多い気がします。メインでもいろいろ食べられた方が楽しいし、失敗しても誰かの料理がおいしければ救われる。そんな感覚がありました。
でも、その場では誰もシェアを提案しませんでした。
一品を選ぶ緊張
自分もその雰囲気に合わせて一品を選んだのですが、ちょっとした迷いがありました。隣の人と同じものを選んでもいいのだろうか、ということです。
日本でみんなで注文するとき、無意識に「被らないように」選んでいた気がします。いろんな種類を頼んだ方が、みんなで分けたときに楽しいから。でもここでは、シェアが前提ではありません。二人が同じパスタを頼んでも、それぞれの皿に同じ料理が来るだけ。誰も気にしない。
自分のためだけに、自分の食べたいものを選ぶ。それだけのことなのに、なぜか少し慣れない感覚がありました。
隣の皿が気になる
もうひとつ、食事中に感じたことがありました。隣の人のお皿がおいしそうに見えたのです。
日本だったら「一口もらっていい?」と気軽に聞けたかもしれません。でもこの場では、それぞれのメインはそれぞれのもの。見えない境界線がお皿の周りにあるような感じがして、「少し分けてほしいな」とは思っても、言い出せませんでした。
この小さな我慢が、日本の食事とアメリカの食事の違いを一番はっきり感じた瞬間だったかもしれません。
お皿の上の境界線
これはレストランのマナーの違いなのかもしれません。でも暮らしているうちに、この「自分の一皿」という感覚は、マナーだけの話ではないような気がしてきました。
日本の食卓を思い返すと、取り分けることが前提になっている場面がたくさんあります。居酒屋で大皿を囲む。鍋を分け合う。家庭でもおかずを真ん中に置いて、それぞれが取る。食べ物は「みんなのもの」として共有されている時間が長い。
アメリカでは、食べ物がもう少し早い段階で「自分のもの」になります。メインが運ばれてきた瞬間、それは自分の皿です。自分で選んだものを、自分のペースで食べる。
文化心理学では、日本のような社会を「集団主義的」、アメリカのような社会を「個人主義的」と分類することがあります。オランダの社会心理学者ホフステードが提唱した枠組みです。お皿の上の境界線がはっきりしているか、ぼんやりしているか。食卓にも、この違いが表れているのだと思います。
気を使わない自由と、分け合う楽しさと
アメリカの「一人一皿」には、ある種の気楽さがあります。日本の取り分ける食事には、小さな気遣いがたくさん含まれています。誰が取り分けるか。相手の好き嫌いに配慮する。最後の一個に手を出していいか。そうした交渉がない分、自分の皿に集中できます。
でも、隣の人のパスタがおいしそうだったあの瞬間を思い出すと、取り分ける文化が少し恋しくなります。「一口もらっていい?」と言える気軽さ。同じものを食べることで生まれる、言葉にしにくい一体感。あれは取り分けるからこそ生まれるものだったのだと、離れてみて気づきました。
お皿の境界線がはっきりしていると、気を使わなくて済みます。でも境界線がぼんやりしていると、食事がちょっとした冒険になる。どちらの食卓にも、それぞれの良さがあります。そしてそこには、「自分」と「みんな」の間にどのくらいの距離を置くかという、その社会の感覚が静かに映し出されているのだと思います。
この食卓の文化差が気になって、少し調べてみました。
気になって調べてみました
「個人主義・集団主義」の文化差は、オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステードが1980年の著書『Culture’s Consequences』で提唱した文化次元理論の中核のひとつです。ホフステードは、個人主義的な文化では「自分の目標や好み」が優先され、集団主義的な文化では「グループの調和や共有」が優先される傾向があると論じました。食事の場面は、この違いが最も日常的に表れる場のひとつです。
食の共有と文化の関係については、人類学者のアラン・フィスクの「関係モデル理論」(1991)も参考になります。フィスクは人間関係を4つの型に分類しましたが、そのうちの「共同分配(communal sharing)」は、食べ物を分け合うことで集団の一体感が生まれるという仕組みを説明しています。日本の鍋料理や大皿文化は、この共同分配の典型的な実践と言えます。一方、個別に注文して個別に食べるスタイルは、フィスクのいう「対等互酬(equality matching)」に近く、各自が対等な立場で同じ場を共有する関係性を反映しています。
興味深いのは、アメリカでもシェアする食文化が存在しないわけではないという点です。ポットラック(持ち寄りパーティー)や感謝祭のような行事では、食べ物を共有することがむしろ中心になります。つまり、「いつ共有するか」の基準が文化によって違うのであり、アメリカ人が食べ物を共有しない、ということではありません。レストランでのメインは個人の領域、ホームパーティーでの料理はコミュニティの領域。場面によって境界線の引き方が変わるのです。



