日付はどこだ

イベントの案内メールが届きました。開いてみると、改行のほとんどない長い段落が続いています。

日付はいつだろう。場所はどこだろう。何を持っていけばいいのだろう。その情報が、段落の文章の中に溶け込んでいました。一文一文を読みながら、目で探していく。日付が二段落目の途中に書いてあって、場所が三段落目に出てきて、持ち物はさらにその先にあった。

日本のイベント案内なら、こうなっていたと思います。件名に【ご案内】とあって、冒頭に挨拶文、その後に「日時:」「場所:」「持ち物:」と箇条書きが並ぶ。必要な情報が一目で拾える。全文を読まなくても、箇条書きだけ見ればいい。

同じ情報を伝えているのに、渡し方がまるで違う。最初は、なぜわざわざ読みにくく書くのだろうと思っていました。

段落で書いてみた

読みにくいと思いながらも、自分が英語でメールを書くとき、相手に合わせてみることにしました。

箇条書きをやめて、段落で書く。日本語のメールでは当然のように使っていた【依頼】【共有】のようなタグも使わない。カッコも、日本語の墨付きカッコ【】のように目立たせるのではなく、英語の括弧()で軽く補足として添える。最初は不安でした。これで伝わるのだろうか。要点が埋もれないだろうか。

でも段落で書いてみると、意外な発見がありました。箇条書きでは伝えきれなかったものが、段落の中には入れられるのです。なぜその依頼をしているのか。どういう経緯でこの結論に至ったのか。箇条書きにすると、情報は取り出しやすくなるけれど、情報と情報のあいだにあった前後関係が抜け落ちる。段落は、その文脈ごと渡す書き方でした。

あのイベント案内のメールも、読み返してみると、ただ日付と場所を伝えるだけでなく、イベントの趣旨や背景、なぜこの持ち物が必要なのかという理由まで書いてありました。全部読めば、情報だけでなく意図も受け取れる。読みにくかったのではなく、自分がスキャンしようとしていたから読めなかったのだと気づきました。

丁寧さの方向

この違いについて、最初は単に書き方の癖の違いだと思っていました。日本人は几帳面だから整理する。アメリカ人は気にしないから段落で書く。でもそれだと、あのイベント案内のメールが、ちゃんと背景や理由まで丁寧に書いていたことの説明がつきません。雑なのではなく、丁寧さの方向が違うのだと考え始めました。

日本のメールは、読み手の時間を奪わないことが丁寧さ。情報を構造化して、視覚的にスキャンできるようにする。忙しい相手が全文を読まなくても要点が拾えるように、書き手が情報を整理して差し出す。

アメリカのメールは、文脈を省かないことが丁寧さ。How are you? が質問ではなかった のと逆で、こちらは省略のほうを削っている。なぜこの依頼をしているのか、背景に何があるのか。情報の周りにある文脈を落とさないために、段落で書く。全文を読む必要はあるけれど、読めば書き手の考えごと受け取れる。

箇条書きは情報を取り出しやすくするが、文脈を切り落とす。段落は文脈を保つが、スキャンしにくい。同じ「相手に伝わるように」を目指していて、何を優先するかが違っている。

切り替わる自分

メニューに写真がない国メニューに写真がない国メニューに写真がない国レストランでメニューを開いたら、文字しかありませんでした。「Tomato」がトマトソースたっぷりの一皿になって出てきたとき、写真があればと思いました。でもこの国のメニューが写真を載せないのには、理由がありました。

最近、面白いことに気づきました。

英語のメールでは段落で書くことに慣れてきました。でも日本語のメールを書くとき、自然と箇条書きに戻っている。件名に【依頼】とつけて、要点を並べて、視覚的に整理する。意識して切り替えているわけではなく、言語が変わると書き方が勝手に変わる。

面白いのは、どちらの書き方も「これが分かりやすいはずだ」と思って使っていることです。日本語で箇条書きにするとき、段落より分かりやすいと信じている。英語で段落にするとき、箇条書きより伝わると感じている。同じ自分が、同じ「分かりやすさ」を目指して、正反対のことをしている。

あのイベント案内メールを最初に読んだとき、「なぜわざわざ読みにくく書くのだろう」と思いました。でも今なら分かります。あれは読みにくかったのではなく、自分の「読みやすい」の基準が、日本語の箇条書きで作られていただけだった。「分かりやすい」は一つではなく、言語と文化のあいだで形が変わるものでした。

省略していいものが違う

Amazonでは社内会議でPowerPointのスライドを使うことが禁止されていて、代わりに最大6ページのナラティブ形式のメモが使われています。創業者ジェフ・ベゾスは、箇条書きのスライドでは思考の構造が曖昧になり、発表者のカリスマ性に頼った意思決定が行われてしまうと指摘しました。完全な文章で書くことで、論理の飛躍や欠陥が明らかになる、というのがその理由です。箇条書きにすると文脈が落ちる、という感覚と重なります。箇条書きは情報を整理する強力な道具ですが、項目と項目のあいだにあるはずの論理的なつながりが、視覚的な整理の中で見えなくなるリスクがある。ベゾスが求めたのは、その「あいだ」を省略せずに書くことでした。

人類学者エドワード・ホールの高コンテクスト・低コンテクスト文化の理論は、書き言葉の形式にも適用されています。高コンテクスト文化では、読み手が共有された文脈を前提に行間を読むことが期待されるため、情報を最小限に絞った書き方が効率的に機能します。日本のメールにおける箇条書きやタグは、読み手が文脈を補完できることを信頼した上で、情報だけを効率よく渡す形式です。低コンテクスト文化では、文脈が共有されていることを前提にしないため、書き手が背景から明示的に書く必要がある。段落による叙述は、読み手に文脈の補完を求めない形式として機能しています。

異文化ビジネスコミュニケーション研究では、メールの形式や構造に文化差があることが指摘されています。日本のビジネスメールは件名の定型化(【依頼】【共有】など)や視覚的構造化を重視し、読み手の処理効率を最大化する方向に設計されています。アメリカのビジネスメールは論理的な段落構成と明示的な主張を重視し、一通のメールが自己完結した文書として機能することを求めます。同じ自分が正反対の書き方をしているのは、二つの論理をどちらも内面化してしまったからなのだと思います。どちらかが正しいのではなく、省略していいものが違う。

参考

  • Edward T. Hall『Beyond Culture』Anchor Books, 1976(邦訳『文化を超えて』)
  • Erin Meyer『The Culture Map』PublicAffairs, 2014(邦訳『異文化理解力』)
  • Jeff Bezos「2017 Letter to Shareholders」Amazon.com, 2018(ナラティブ形式のメモについて)