メニューを開いたら

イタリアンレストランで席について、メニューを開きました。文字しかない。

料理名がまずあって、その下に食材が並んでいる。でもそれがどう調理されて、どんな見た目で、どのくらいの量で出てくるのかが分からない。日本のレストランでは、メニューに写真があった。店の前には食品サンプルが並んでいることも多かった。注文する前に、出てくるものの姿が見えている。それが当たり前だったのだと、文字だけのメニューを前にして初めて気づきました。

ここでは、文字から完成形を想像するしかない。でもその想像が合っているかどうかは、料理が運ばれてくるまで分からないのです。

トマトがトマトソースだった日

案の定、想像と違うものが出てきました。

メニューに「Tomato」と書いてあったので、トマトが使われている料理なのだろうと思っていました。出てきたのは、トマトソースがたっぷりかかった一皿でした。トマトが添えてあるのと、トマトソースに覆われているのでは、だいぶ違います。別の店では、軽い調理を想像して頼んだものが、がっつりした揚げ物で出てきたこともありました。

文字は食材を教えてくれる。でも、それがどう姿を変えて皿に載るかは教えてくれない。写真なら一瞬で伝わることが、文字だけだと埋まらない。

それ以来、注文する前にGoogle Mapsでそのお店のレビュー写真を見るようになりました。他のお客さんが撮った料理の写真を確認して、「これがあの文字の料理か」と納得してから注文する。メニューにない写真を、自分で外から持ってきている状態です。

メキシカンレストランではさらに難しくなりました。料理名がスペイン語で、そもそも読めない。burritoとenchiladaとquesadillaの違いが、文字を見ても分からない。材料の英語は読めても、それがどう組み合わさるのかが想像できない。完成形の写真がないまま、言語の壁まで加わります。

メニューは会話の始まり

この違いを考えていて、メニューが伝えようとしているものがそもそも違うのだと気づきました。

日本のメニューは「完成形」を見せている。写真や食品サンプルで、出てくる料理の姿をそのまま提示する。お客さんは完成形を見て、「これが食べたい」と選ぶ。完成形が約束されているから、出てきたものが写真と違えば、それは問題になる。メニューは「答え」であり、注文はその答えを指さす行為。

アメリカのメニューは「材料」を見せている。この料理には何が入っているか、どんな調理法か。情報をリストとして開示している。これは、ここから引いたり足したりすることが前提だからなのかもしれません。実際、アメリカのレストランでは「トマト抜きで」「ソースを別添えで」といったカスタマイズが日常的に行われている。完成形をひとつに固定するのではなく、材料を提示して、お客さんがそこから自分の一皿を組み立てる。写真を載せないのは不親切なのではなく、完成形がひとつに決まらないから、写真では表現しきれないのだと思います。

そしてもうひとつ気づいたことがありました。レストランで周りを見ていると、アメリカの人たちはメニューについて店員さんによく質問しています。「これはどんな感じ?」「量は多い?」「おすすめは?」。文字だけでは分からない完成形を、会話で埋めている。日本では写真が担っていた役割を、ここでは店員さんとのやりとりが担っているのです。

メニューは答えではなく、会話の始まりなのだと思いました。写真で完結する日本のメニューと、会話で補完するアメリカのメニュー。自分がメニューの前で困っていたのは、写真がなかったからだけではなく、この会話の回路を持っていなかったからなのかもしれません。

完成形を見せるか、材料を見せるか

日本の食品サンプルは、店頭に料理の精巧な模型を並べるという、世界的にもほとんど例のない仕組みです。これは「完成形を提示することで客を安心させる」という、日本の飲食サービスにおけるコミュニケーションの形です。写真付きメニューと食品サンプルは、言葉を介さずに期待値を共有する仕組みとして機能しています。このような視覚的な事前共有は、サービス提供者と客の認識のずれを最小化することを重視する日本のサービス文化の特徴として指摘されています。

メニューデザインの研究では、写真を使うメニューと文字だけのメニューでは、注文行動が変わることが示されています。写真は選択のスピードを上げ、不確実性を下げますが、選択肢を固定する方向に働きます。文字だけのメニューは不確実性が高い反面、カスタマイズの余地を残します。完成形を見せるか、材料を見せるか。あの違いは、メニューという道具に何をさせるかの違いでもありました。アメリカの外食におけるカスタマイズの一般性は、返品文化の記事 で触れた「購入は確定ではなく仮決定」という考え方と通じるものがあります。注文もまた、確定ではなく、そこから調整可能な起点なのかもしれません。

店員さんによく質問する——あの行動は、サービス研究でいう「サービス・エンカウンター」の文化差でもあります。アメリカの外食文化では、店員と客の対話はサービスの質の一部と見なされていて、メニューについて質問することも、おすすめを聞くことも、やりとりとして歓迎されています。一方、日本のサービス文化では、客が質問しなくても必要な情報が事前に提示されていることが「良いサービス」の条件とされやすい。写真付きメニューや食品サンプルは、この「聞かなくても分かる」を実現する仕組みだとも言えます。どちらも客の満足を目指していますが、情報を事前に視覚で渡すか、対話の中で言葉で渡すかという経路が異なっているのです。

いつもカラマリを頼む自分

最近の自分の注文パターンに気づいて、少しおかしくなりました。大体いつも同じものを頼んでいる。カラマリとか、前に一度頼んで分かっているもの。

日本では、もっといろいろなものを頼んでいた気がします。これでSmallなの と驚いていた頃は、まだ選ぶこと自体を楽しんでいました。写真を見て「あれもおいしそう、これも試してみたい」と、毎回違うものを選ぶ楽しさがあった。自分は冒険好きだと思っていたけれど、あの冒険は写真に支えられていたのだと気づきました。完成形が見えていたから、安心して飛び込めた。ここでは完成形が見えないから、安全なものに戻ってしまう。

ただ、あのトマトソースたっぷりの一皿も、驚きはしたけれど、食べてみたら普通においしかった。想像と違うことと、おいしくないことは別の話でした。写真があれば避けていたかもしれない一皿が、実際にはおいしかった。考えてみれば、日本で写真を見て「これは違うな」と避けていた料理の中にも、食べてみたらおいしいものがあったのかもしれません。

写真は冒険を助けてくれるけれど、同時に、写真で見た印象で選択肢を狭めてもいた。文字だけのメニューは不安だけれど、想像が外れた先に思いがけないおいしさがあることも、ここで知りました。

参考

  • Charles Spence『Gastrophysics: The New Science of Eating』Viking, 2017(見た目が味の期待を作る)
  • Brian Wansink『Mindless Eating: Why We Eat More Than We Think』Bantam, 2006(メニューの表示と選択行動)
  • Mary Jo Bitner, Bernard H. Booms, Mary Stanfield Tetreault「The Service Encounter: Diagnosing Favorable and Unfavorable Incidents」Journal of Marketing 54(1), 1990