郵便局のドアが壊れていた日

ある日、郵便局に行ったらドアが壊れていました。入り口にはドアが2つ並んでいて、道路に近い方のドアが開きにくくなっていたのです。

自分もちょっと苦労して中に入ったのですが、面白かったのはそのあとでした。用事を済ませて中から様子を見ていると、次に来た人が同じドアに苦戦して、“Oh geez…” とつぶやきました。その次の人は “What is going on with this door…” と首をかしげながら通っていきます。また次の人は “Come on…” とドアに話しかけるように言っていました。

隣の正常なドアを使えばいいのに、なぜかみんな壊れた方を引いてしまう。そしてそのたびに、何かしら声に出してリアクションしている。同じドアに同じように苦戦して、一人ひとり違う言葉で反応していく様子は、ちょっとしたコントのようでした。

同じ場面が日本だったらどうだろう、と思いました。ドアが重いな、とは思います。壊れてるのかな、とも思います。でも、それを声に出す人はあまりいない気がします。心の中で思って、黙って通り過ぎる。それが自然な振る舞いだったと思います。

フィルターの厚さ

前回の記事で、感情の「音量」が日米で違うと書きました。あれは誰かに向けて喜びや感謝を表すときの話でした。今回は少し違います。誰にも向けていないのに、声が出ている。音量の問題ではなく、そもそも音を出すかどうかの問題です。

心の中の反応と、実際に口から出る言葉の間には、フィルターのようなものがあるのだと思います。日本では、このフィルターが厚い。思ったことのほとんどは内側に留まります。特に公共の場では、自分の反応を声に出すこと自体に、少し恥ずかしさがあります。私も独り言を言うタイプですが、それは家の中での話です。外では言いません。

アメリカでは、このフィルターが薄いのです。思ったことがそのまま口に出る。でも、それが失礼だとは思われていません。郵便局で壊れたドアに “Come on…” と話しかけている人を、周りの誰も変な目で見ていませんでした。

あちこちで漏れている

郵便局の一件が気になってから、意識して周りを見るようになりました。すると、あちこちで小さな心の声が漏れているのです。

スーパーで商品を見ながら “Oh, nice!” と声に出す人。駐車場で “Where did I park…” と自分に問いかけている人。道を歩きながら何かを思い出したのか “Oh, right!” とひとり言を言う人。どれも誰かに話しかけているわけではありません。心の中にあるはずの反応が、フィルターを通らずにそのまま外に出ています。

この感覚に、だんだん慣れてきました。そして、慣れてくると、悪くないなと思うようになりました。

壊れたドアに “Oh geez…” とつぶやいている人を見ると、「ああ、この人も同じことを思っているんだな」と分かります。言葉を交わしているわけでもなく、目を合わせたわけでもないのに、同じ場にいる人と感覚が少しだけ共有されます。フィルターが薄いからこそ生まれる、ゆるいつながりです。

日本の街は、比べると静かです。みんな心の中で同じように感じているはずなのに、それが外に出てこない。整然としていて美しいけれど、一人ひとりが何を思っているのかは見えません。アメリカの街は、少しざわざわしています。でもそのざわざわの中に、人の気持ちが透けて見える瞬間があります。

どちらがいいとは言えません。ただ、感情がわかりやすい社会に暮らしていると、自分も少しだけフィルターが薄くなっていくのかもしれない、と思うことがあります。まだ外で独り言を言う勇気はないのですが。

この「声に出す」文化の背景が気になって、少し調べてみました。

気になって調べてみました

心の中の反応を声に出す行為は、心理学では「私的発話(private speech)」と呼ばれる現象と関連しています。ソビエトの心理学者レフ・ヴィゴツキーは、子どもが思考を声に出しながら問題を解決する過程を研究し、これを私的発話と名づけました。大人になるにつれてこの発話は内言(心の中の声)に移行するとされていますが、大人でもストレスや驚きを感じたときに思わず声が出ることがあります。内言が一時的に外に漏れ出した状態だと考えられています。

文化的な視点で見ると、どこまでの発声が社会的に許容されるかには差があります。前回の記事で紹介したエクマンの「表示規則」は主に対人場面での感情表出を扱いますが、独り言や感嘆といった「誰にも向けていない発声」にも、同様の文化的な規範が及んでいると考えられます。日本の公共空間では静粛さが重視される傾向があり、独り言は「周囲への配慮が足りない」と受け取られることがあります。一方、アメリカの公共空間では、こうした小さな発声は日常の一部として許容されています。

本文で触れた「フィルターの厚さ」の違いは、文化心理学における感情表出と「真正性(authenticity)」の関係からも捉えることができます。北米の文化圏では、感じたことを外に出すことが自分に正直であることの表れと見なされる傾向があります。一方、日本を含む東アジアの文化圏では、内的な感情を抑制し、場に応じて適切にふるまうことが成熟の証とされます。同じ壊れたドアの前で、声を出すか出さないか。その一瞬の違いに、「自分らしさ」をどこに置くかという、文化の深い部分が映し出されているのかもしれません。