部屋の中のTikTok
洗濯機の修理を頼みました。業者さんが部屋に来て、状態を見て、部品が必要だということになった。別の人が部品を持ってくるのを待つあいだ、業者さんはスマホを取り出して、音を出してTikTokを見始めました。
自分の部屋の中で、呼んだ業者さんが、音を出して動画を見ている。驚きました。日本だったら絶対にないと思った。日本の業者さんなら、部品を待つあいだは一旦部屋の外に出るか、部屋の端の方で静かにしているだろう。少なくとも、お客さんの部屋で音を出してスマホを見ることはない。
でも不快だったかというと、そこまでではなかった。自分も他のことをしていたし、業者さんの修理自体はちゃんとしていました。仕事に問題はない。ただ、驚いた。
仕事の隙間に「素」が見える
こうした場面はこれだけではありませんでした。ファストフードのレジでも、客がいないとき、店員さんがスマホをいじっているのを見かけたことがあります。客が来ると、スマホをしまって普通に対応する。対応自体は問題ない。
心の声がそのまま聞こえてくる のと同じで、隠されないものがここには多い。日本では、客がいなくても、店員さんは棚を整えたりカウンターを拭いたりしている。「客がいない時間」も「仕事の時間」として振る舞っている。アメリカでは、仕事の隙間に「仕事をしていない自分」が見えることがある。
役割をどこまで着ているか
洗濯機と乾燥機が別々な理由洗濯機と乾燥機が別な理由 — ドアの向きとガス式・電気式引っ越して、洗濯機と乾燥機が別々の機械なのに驚きました。しかも上下に重ねてあって、よく見るとドアの開く方向が逆。移し替えやすくするための設計でした。一体型が普及しない理由と、外干しをしない背景まで調べました。この違いについて、最初は「仕事に対する意識の差」だと思いました。でもそれだと、修理業者さんの仕事がちゃんとしていたことの説明がつかない。手を抜いているわけではなかった。やるべきことはやった上で、待ち時間にTikTokを見ていた。
考えているうちに気づいたのは、仕事の意識の「高さ」ではなく、「役割の着方」が違うのだということでした。
日本では、仕事の役割を着たら、勤務が終わるまで脱がない。業者さんはお客さんの部屋にいる限り「業者」であり、待ち時間も含めて役割の中にいる。コンビニの店員さんも、シフト中は常に「店員」。隙間の時間も役割の一部として過ごす。役割を一度着たら、全身で着続ける。
アメリカでは、役割は作業に応じて着たり脱いだりするものに見えます。修理しているときは「修理業者」。でも部品を待っている時間は、作業をしていないから、役割を一旦脱いで「自分」に戻る。レジに客が来たら「店員」になって、客が去ったら「自分」に戻る。役割と素のあいだの切り替えが速くて、その切り替え自体を隠さない。
あのTikTokに驚いたのは、仕事が雑だったからではなかった。自分の部屋の中で、呼んだ業者さんが、役割を脱いで「素の人」に戻った瞬間を見たからだったのだと思います。日本では見ることのなかった瞬間でした。
役割を脱ぐ場所
社会学者アーヴィング・ゴフマンは『出会い』(1961)の中で、「役割距離(role distance)」という概念を提唱しました。人は社会的な役割を演じるとき、その役割に完全に没入するのではなく、役割と自分自身のあいだに一定の距離を置くことがあります。ゴフマンが挙げた例では、メリーゴーラウンドに乗る子どもが、幼い頃は夢中で楽しんでいるのに、大きくなると「本気で楽しんでいるわけではない」という態度を見せるようになる。役割と自分のあいだに距離を取ることで、「自分はこの役割だけの存在ではない」と示しているのです。あの業者さんがTikTokを見ていたのは、「修理業者」という役割と自分のあいだに距離を取り、その距離を隠さなかった、ということなのだと思います。日本の業者さんが待ち時間も役割を脱がないのは、この役割距離を最小に保つことが、プロフェッショナリズムとして求められる文化だと捉えられます。
ゴフマンはまた『行為と演技』(1959)の中で、社会生活を舞台に喩え、人が「表舞台(front stage)」と「舞台裏(backstage)」を使い分けていると論じました。表舞台では人は他者の期待に沿った振る舞いをし、舞台裏ではその役割から解放される。日本の業者さんがお客さんの部屋で常に役割を演じ続けるのは、お客さんの目の前を常に「表舞台」と見なしているから。アメリカの業者さんが待ち時間にTikTokを見るのは、作業をしていない時間をその場にいながら「舞台裏」として扱っているから。同じ部屋の中でも、その空間が「表」か「裏」かの判定が文化によって異なるという点が興味深いところです。
社会学者アーリー・ホックシールドは、サービス業における「感情労働」の概念を提唱しました。自分の感情を管理し、役割にふさわしい表情や態度を維持し続けることにはコストがかかります。日本のサービス文化が求める「常に役割の中にいる」という状態は、感情労働の負荷が高い。着続ける側にとっては負荷でもあったはずだ——あのとき浮かんだ感覚は、この概念に重なります。待ち時間に「素」に戻ることを許容する文化は、感情労働の負荷を断続的に解放する仕組みとして機能しているとも言えます。
あっても困らなかった
あのとき驚いたのは確かです。でも部品が届いたら業者さんはすぐに作業に戻って、修理はきちんと終わりました。
考えてみれば、日本で業者さんが待ち時間に部屋の端で静かにしているとき、自分はそれで安心していたけれど、あの「静かにしている時間」に何かが生まれていたかというと、特に何もなかった。安心感はあったけれど、必要だったかと言われると分からない。
役割を着続けることで生まれる安心感は確かにある。でもそれは、着続ける側にとっては負荷でもあったはずです。あの丁寧さは心地よかったけれど、その心地よさの分だけ、誰かが役割を脱がずにいたのだと思うと、少し違う見え方がします。
自分の部屋でTikTokを見ていた業者さんは、待ち時間を自分の時間として使っていた。そして修理はちゃんと終わった。あの驚きの中身は、なくては困るものではなく、あっても困らないものだったのだと思います。
参考
- Erving Goffman『Encounters: Two Studies in the Sociology of Interaction』Bobbs-Merrill, 1961(邦訳『出会い』/役割距離)
- Erving Goffman『The Presentation of Self in Everyday Life』Anchor Books, 1959(邦訳『行為と演技』/表舞台と舞台裏)
- Arlie Russell Hochschild『The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling』University of California Press, 1983(邦訳『管理される心』/感情労働)




